殺そうと段取りを付けるだが刺客役がびびってしまいなかなかうまく行かない。この日の経緯についての日本書紀の記述は、臨場感に溢れている。大化の改新 - Wikipedia: "皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った。"
ここに現代訳があった:
乙巳の変 - Wikipedia:"645年、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌子はこれを好機として暗殺の実行を決める。(大織冠伝には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)
同年6月12日、三国の調の儀式の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣をはずさせていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌子は弓矢をとってひそんだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えた。
入鹿を斬る役目を任された二人は恐怖し、飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すありさまだった。鎌子は二人を叱咤した。石川麻呂が表文を読み進めるが子麻呂らは現れない、恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えた。不審に思った入鹿が「なぜふるえるのか」と問うた。石川麻呂は「天皇のお近くが恐れ多く、汗が出るのです」と答えた。
中大兄皇子は子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭して言った「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」。天皇は大いに驚き中大兄皇子に問うた。中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えた。皇極天皇は直ちに殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺した。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。"
騙されて武装解除をしてしまったのが入鹿の敗因。
ちなみに、人間は極度に緊張すると嘔吐してしまう。入鹿暗殺の時の刺客もそうだが、前世紀ではピストル決闘を前にした若者とか、今世紀ではノルマンディー上陸作戦での上陸艇上の兵士とか。大薮春彦小説の主人公ですら突撃の最中は恐怖のあまり失禁する。こういう経験をしてない世代は、しょせん甘い人生しか過ごしてこなかった世代であり、まさかの時には役に立たないのではないか。エコで自己満足しているようじゃ将軍様に勝てない。
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